親から子へのメッセージ

豊臣秀吉の遺言状

 

<豊臣秀吉の遺言状>
秀より事 なりたち候やうに 此かきつけのしゆ(衆)としてたのミ申し候
なに事も 此不かにはおもいのこす事なく候 かしく
八月五日 秀吉印
いへやす ちくせん てるもと かけかつ 秀いえ 万いる
返々秀より事 たのミ申し候五人の志ゆ(衆)たのミ申し候 
いさい五人物ニ申わたし候 なこりおしく候 以上(原文)

(秀頼のこと)(成り立つように)(この書き付け)(五大老衆に頼みます)
(何事も)(此の他には、思い残すことはありません。)
(八月五日 秀吉印)
(徳川家康)
(前田利家)
(毛利輝元)
(上杉景勝)
(宇喜多秀家)
(かえすがえすも秀頼のこと頼みます。五人の衆、頼みます。)
(委細は五人の者に申し渡してあります。名残惜しく思います。以上)

秀吉は、病床に伏すようになり、政務を執ることができなくなると、徳川家康などの五大老や奉行衆に幾度となく、秀頼に忠誠を尽くす旨の誓書を差し出させています。
加藤清正・福島正則・黒田長政ら秀吉子飼いの武功派大名と、三成・増田長盛・長束正家ら吏僚派との確執や、正室北政所(ねね)と秀頼の生母淀君(茶々)の反目、加えて、常々「りちぎ(律義)」と評していながら、どうしても全幅の信頼を置くことができない家康の存在など、豊臣家の将来に対する不安が絶えなかったのです。戦国時代の中で戦い抜いて天下人となった秀吉は、主家である信長の子に対してとった自らの仕打ちを体験として持っていたがゆえの不安であったと思われます。
そして、慶長3年8月18日辛未(1598年9月18日)、信長の後を継いで全国を制覇した豊臣秀吉が、六十二歳の生涯を閉じました。

その辞世の句は、
つゆとをち つゆときへにし わがみかな なにわの事も ゆめの又ゆめ 松
(露と落ち 露と消へにし 我が身かな 浪速のことは 夢の又夢 秀吉)
というものです。
この中の「浪速のこと」は、豊臣家の後継である秀頼を指しているといわれています。
秀吉が、秀頼のことや豊臣家の行く末をどれほど案じていたかが、よく分かります。
もはや、精力的な秀吉の面影はなく、こうすることでしか、豊臣家を存続させることはできないと、恥を忍んでの懇願です。
この年、その秀頼はわずか6歳でした。


 

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